被災地以外で急増している「情報過多」の現状と対策
九州の震災の件、被災した方々が少しでも早く落ち着けるように心から願っています。
九州での未曾有の震災。Twitterには二時間もおかずに地震速報や死亡者・負傷者速報が入り乱れている状態。今日は少し落ち着いたかなという印象。
16日には熊本在住の友人一家の安全が確認できたので暫くTwitterやニュースサイトから距離を置いていました。
被災地はもちろん大変な状態なのだが、被災地以外の人も疲弊している。
意外と気付いていない人が多いようなので、筆をとってみた次第。
きっかけは北海道の友人の呟き
「昨日一昨日からずっと胃が痛い。吐きそう」
そう呟いたのは北海道在住の友人だった。何かと多忙ながらも気が強くて真面目な人である。真面目すぎてそのうちぶっ壊れてしまうのではないかとかなり心配している女性だ。どうやら「仕事のストレス」が原因だと思っている様子。
実はこの呟きを見た時、私は全く同じような症状にいた。吐き気と妙な抑うつ状態、胃痛、気だるさなど。
だから「もしかしたらだけど情報過多の可能性も……」と声をかけてみた。
彼女はとても優秀な人なのだけど、だからこそ「情報過多」という状態の可能性が頭からすっぽ抜けていたみたいだった。
今日、青森に住む祖母に電話をした。
話題は自然に地震関連となり、祖母もだいぶ疲れている様子だった。
取り敢えず「情報が多すぎて脳味噌が疲れているのかも」と噛み砕いて、少しテレビから離れるように提案してみた。納得した様子で話を聞いてくれた。
「PTSD」と「情報過多」の違い
「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」と「情報過多」は違うもの。
「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」は主に「直接被災した経験がある人」とか「虐待などの強いストレスを受けたことがある人」にあるもので、「地震速報を聞いたとたんにパニックを起こす」とか「津波を思い出して動悸が止まらなくなる」とか、なんかそういう感じ。
私は北海道南西沖地震で被災して、東日本大震災の時は東京にいた。北海道南西沖地震の時も(かなり幼少期だけど)津波の可能性があるからと避難所に行ったものだから、東日本大震災であれだけの津波が発生したことをテレビで見て戦慄した。もしかしたら自分がああなっていたのかもしれないという酷いショックを受けた。
それに対して「私は今まで被災をしたことがないのに震災の情報が入ると具合が悪くなる」という人も結構いる。というか、かなりいる。
原因は「PTSD」じゃなくて「情報過多」や「情報オーバーロード」、「集団ヒステリー」なんかが多いみたい。
以下は東日本大震災の時に呟かれたもの。
放送局の人間が言う事ではありませんが、しんどくなったらテレビを消して下さい。好きな音楽をかけて下さい。お風呂に入って下さい。これは未曾有の大災害です。みなさんが全てを受け止めようとして心が荒んだり、折れてしまってはいけない。無事な人は心に余裕をもてるように。
— 西 靖 (@y_west) March 13, 2011
これをわざと小難しくいうのが「情報過多」だったりする。
「情報過多」は何故起きるのか
テレビ・ラジオの時代から「情報過多」はあったものだけれども、インターネットが+当たり前に普及した現代、嫌でも情報が入ってくる。
それは私らが情報として認識していないもの、例えば「Twitterのタイムラインに流れてくる特に興味もないツイート」とか「詳しく読まなかったけど新聞の見出しで目に入ったこと」とか「食事中に聞いていたニュースの内容」とか、積極的に収集しようとしていない情報のことをいう。
脳味噌のキャパシティはヒトそれぞれなのだけれど、基本的には「情報の量×質」といってしまっていいんじゃなかろうか。
あまり気に留めない情報だけど、積み重なるといつの間にか負担になっている。そういうことが結構ある。
「発見されました」と「無事発見されました」
私の住んでいる自治体はそこそこ大きいところなので、痴呆老人も多い。そして家族が目を離した隙にふらあっと出掛けてしまって行方不明なんてのが週に何度かある。
すると自治体は「○○町の某さんが本日行方不明になりました」というアナウンスを市内に放送して、情報提供と保護の協力を求める。
その数時間後に自治体は「見つかりました。ご協力ありがとうございました」という旨のアナウンスをするのだけど、「無事保護されました」と「保護されました」の2パターンがある。
「無事発見された」ら、生きてる。ただの「発見されました」だったら死んでる。その違い。
普段は聞き流す程度の違いかもしれないけれど、疲れている時に「ああ、某さん、死んで見つかったのか……」なんて思ってしまうとドスンと気が重くなる時がある。これにはその時々の気分や心理状態、体調も関わってくるし、個人個人のメンタルの強さも関係するだろうからはっきりとは言い切れない。
ただ「無事」の2文字があるかないかの違いで、無意識が受けるダメージは違ってくる。
「情報過多」と「情報オーバーロード」「集団ヒステリー」の違い
ざっくばらんに言いきっちゃうと
- 「情報過多」…… 色々な話を聞いているうちに心労が重なり気分が悪くなる。
【例】連日の地震速報ばかり流し見ているうちに被災地への心配やら自分の備えやらの不安が重なって体調を崩す - 「情報オーバーロード」…… 自分のキャパシティを超える量の情報を理解しようとして正しい判断ができなくなる。
【例】被災地に支援物資や寄付を送りたい気持ちで色々調べると「流通止まっている時に送るな」とか「生理用品は必要不可欠。送って欲しい」とか「送った物資が行き届いていない」とか「A宅配業者とB宅配業者は九州への受付をストップしている」とか、「A募金団体は信用ならないのでB団体を使うように」と「B募金団体は信用ならないのでA団体を使うように」などといった複数の対立する意見があちこちで上がっていて、調べれば調べる程、結局どれに従ったらいいのかわからなくなる。 - 「集団ヒステリー」…… 自分の所にも災害が起きるのではないかという恐怖から複数の人間が同じようなパニック状態になる
【例】熊本の震災を受けて、東京のコンビニの商品が無くなってしまう
情報過多への対策
「情報過多への対策」としているけれど、「情報オーバーロード」や「集団ヒステリー」にも使える対策。
まず、そういう状態があるのだと知ること。
「情報を得すぎると疲れる」ということを知っているかどうかだけでだいぶ変わる。そして、それが「情報から一時的に距離を取るようにする」という自衛への第一歩。
次が、「自分も(情報過多/情報オーバーロード/集団ヒステリー)になるかもしれない」という意識を持つこと。
これは集団ヒステリーへの対策として教えてもらったんだけど、「もしかしたら」を心掛けることでいざという時に自分をコントロールできるようになる。避難訓練とだいたい同じ理屈。心の避難訓練とでも言っていいと思う。
そして、情報から一時的に距離を取れるようになること。
震災が続いている時はどうしても新しい一大事が起きるんじゃないかって不安でテレビをつけっぱなしにしたりTwitterに入り浸ったりする人が多いみたいだけど、敢えて一歩下がって休憩してみる。気になるものは気になるけど、ちょっとだけ避けてみる。漫画を読んだり音楽を聞いたり、好きなものを食べたり。私はそれは全く不謹慎じゃないと思うがね。(まあ、某社の人みたいに弁当写真を上げちゃうのはなんか違うと思うけど)
news.livedoor.com
気分転換の重要性
阪神淡路大震災の時に子供たちの間で「地震ごっこ」が流行ったみたいに、人の心って自分で治そうとする働きがあるらしい。
それが「食事をしよう」とか「音楽を聞こう」とか「今日はごろごろする日にする」だとか、人それぞれ。
知人のカウンセラーは「色鉛筆やボールペンなどを使って絵を描いたり、写経・写本をしてみたりすること」がオススメだと言っていた。
色を選ぶとか文字を書くとかの行為が無意識の自己表現・自己治癒になっているんだって。
私も震災後はTwitter見ないで艦これとかしてたけど、さっきちょっと見たら少しは落ち着いてきたのかなあ…みたいな感じになりつつはあったような印象。たまたまかもだけどね。
本当に少しでも早く落ち着いて復興することを祈るばかり。